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2009年9月30日 (水)

目黒のさんまの由来は…

 9月は例年、約1か月にわたって区議会が開かれ、昨年度の決算審議などを中心に、活発な議論が交わされます。

 それとともに、区内では「区民まつり(さんままつり)」をはじめ、碑文谷八幡などの祭礼もおこなわれ、毎週のように各地で祭りが繰り広げられます。

 目黒の「区民まつり」はいつも碑文谷八幡の祭礼と日時が重なり、あまり行く機会がなかったのですが、今年は20日午前に「区民まつり」にも出席しました。朝から恒例の「さんま」を目当てに、大勢の人が並んでいました。

 さて、「目黒といえばさんま」といわれる所以は、有名な落語からきていますが、もともと、さんまは江戸時代の百科事典とも言われる「和漢三才図会」第49巻には「伊賀大和土民は好んでこれを食べるが、魚中の下品である」と書かれています。さんまはもともと、脂が多いせいか下等な食べ物とされていたようです。

 このさんまを大名が「うまい!」と絶賛した話が「目黒のさんま」です。「YAHOO!百科事典」によると、このように落語の内容が紹介されています。

 ある大名が秋の野駆(のが)けに目黒へ出かけ、昼どきになったので空腹を覚えた。そのとき付近の農家で焼いていたサンマのにおいが殿様の食欲をそそった。殿様は家来と農家に入り、食事を所望してサンマを大いに食べた。すこぶる美味であった。

 その後、殿様はサンマの味がどうしても忘れられず、食膳(しょくぜん)に供えるよう強く要望した。これを聞いて驚いた調理係の者は上等のサンマを取り寄せ、蒸してすっかり脂肪を抜いたものを出した。殿様は失望し「これがサンマか、ほんとうか、いずかたより仕入れたか」「日本橋は魚河岸(うおがし)にございます」「なに、魚河岸? それではいかん、サンマは目黒に限る」。

 以上が通説ですが、殿様がさんまを食べるくだりは、諸説あるようです。

 先日、支持者の方から末広恭雄著『魚と伝説』という本のコピーをいただきました。そこでは、次のように書かれています。

 昔、徳川幕府の華やかなりしころ、ある秋、将軍家でタカ狩りを催したが、その日は獲物が多く、一同時の経つのも忘れてしまった。そして将軍は暮色迫るころ、すっかり疲れて空腹を覚えたので、目黒の茶店に立ち寄って夕食を所望したが、急なことであり何もなかった。そこでその家の主人は時下の総菜用に買っておいたさんまを焼いて炊きたての飯に添えて出した。

 後半の話は先の内容でだいたい共通しています。

 さんまを農家で焼いていたので立ち寄ったのか、それとも茶店に立ち寄ってさんまを食したのかの違いですが、実は、後説のネタが実在しているいうことが、『魚と伝説』で紹介されています。その内容は、

 今から約300年ほど前、現在の目黒区中目黒2丁目の一帯は家数にして14戸、人数にして60人足らずの人が住んでいたごく小さい村だった。そこに百姓の彦四郎じいさんはささやかな茶店を出していたが、じいさんが気さくな上になかなか才覚もあったため、人々はこの茶店を特に「爺が茶屋」と呼んでいたという。

 ところである年の秋、将軍家光がタカ狩りの帰途、この茶店に立ち寄ったが、空腹でたまらないので何か食事をということになった。

 さて、彦四郎じいさんだが、日ごろから将軍に庶民の味を知らせたいと思っていた矢先だったので、自分の夕食用のさんまを焼いて献じた。空腹だった将軍はよほどうまかったとみえて、ほうびとして彦四郎じいさんに茶屋から目の届く範囲の土地を下さろうとしたが、じいさんはさんまの味さえわかってもらえば幸いであるとして、そのほうびを辞退した。

 この話は、「将軍御成節記録覚」に残っているそうです。

 「目黒のさんま」の話も、徳川家光の時代の話が後世に受け継がれ、落語などを通じてさまざまな人が語りついで現在に至っているという、時代を超えたロマンを感じさせます。

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コメント

古典落語ネタですね( ^ω^ )
うちの方では古典落語を芝居にしたのをやってます。
目黒のさんまも芝居化されました。
自分も9年前に猫の茶わんに出させてもらいました( ^ω^ )

投稿: PON | 2009年10月 6日 (火) 20時12分

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